1月31日は生命保険の日です。これは日本で生命保険の保険金が最初に支払われた日(明治15年1月31日)にちなんだものだそうです。最初の生命保険会社が設立されたのはその前年、明治14年(1881)の7月9日で有限明治生命保険会社でした(現・明治安田生命保険相互会社)。
生命保険のルーツは「香典講」だと言われています。中世に日本でも西洋でも仲間内で誰かが亡くなったら一定の金額を遺族に支払うという約束事が結ばれ運用されることがしばしばありましたが、参加者が減ると確実に破綻するため概して長続きしませんでした。
近代的な生命保険会社の最初は1762年にイギリスで設立されたイクィタブル社(Equitable Life Assurance Society)であるとされます。この会社の創立者であるJames Dodsonは生命表(特定の年齢の人が1年でどれだけ死に平均余命は何歳あるかを一覧にした統計表)をもとに、幾らの掛け金をもらって幾らの保険金を支払えば経営が成立するかというのを厳密に計算して、長く運用していける生命保険の仕組みを作りました。その後の生命保険会社の運用は基本的にはこのドブソンの方式を踏襲しています。
明治生命の創設者の阿部泰蔵(1849-1924)は三河国吉田藩の医家豊田鉉剛の三男で蘭法医・阿部三圭の養子になったあと、蘭学・漢学などを学び、慶應義塾で塾頭を務めました。明治10年に外国の生命保険会社が日本に上陸して加入者の募集を始めたため、慶應義塾内で、日本でもこういうシステムを作ろうという意見が出てきて、小泉信吉・小幡篤次郎・そして阿部らで生命保険のシステムが調査され、荘田平五郎(三菱)が保険会社設立の起草文を書き、福沢諭吉もこれを後押しすることになりました。
かくして明治14年、阿部と荘田を中心に明治生命が設立されたものです。他の大手生命保険会社としては、明治21年に帝国生命(後の朝日生命)、明治22年に日本生命、明治27年に共済生命(後の安田生命)、明治35年に第一生命、明治40年に日之出生命(後の住友生命)、大正3年に高砂生命(後の三井生命)が創業しています。明治生命が創業した時はまだ日本人の生命表が存在しなかったため、イギリスの生命表を利用して金額の算定をしています。日本人の生命表を使い始めたのは日本生命が最初だそうです。
なおこの「生命保険の日」のもとになっている最初の死亡保険者は警察関係の人だそうで(殉職ではなく心臓麻痺)、支払った保険料が30円、遺族が受け取った保険金は1000円とのことです。当時の物価ですが、明治15年にお米が10kg82銭しています。米の値段の基準でいえば、今なら保険料10万円、保険金300万円といった感じでしょうか。
生命保険のシステムを成立させるためにはどうしてもある程度まとまった数の加入者が必要なのですが、明治の当初は「保険に入ったら寿命が縮むらしい」などといったデマなども飛び交い、営業マンたちはかなり苦労したようです。
保険は基本的には「もしもの時の補償」なのですが、現在の日本では本来の形である掛け捨て方式がなかなか普及せず、満期保険金のあるタイプが大手の保険会社では主流になっています。特に戦後初期の頃は満期保険金と死亡保険金が同額になる養老保険型が人気でした。その後、平均寿命の伸びによって早々に満期が来てしまうそれまでの保険に代わって1970年代からは保証が一生続く終身保険が登場して代わって主流になっています。
なお生命保険会社の多くは「相互会社」という特殊な組織形態になっています。これは生命保険は利益を追求する企業であってはならず、剰余金が出た場合は加入者に還元すべきであるということから設定されたものです。しかし実際の各生命保険会社の内情は普通の企業とさほど変わらないものとなっており、普通の株式会社でもいいのではないかという意見が強くなり、形態の転換を目指すところも出てきました。
なおこれらの大手の生命保険会社が運営する「総合サービス型」の保険に対して、掛け捨て方式で純粋な相互保証だけをおこなっているものとして、各都道府県単位で運営されている「県民共済」もあります。
Y.S